
HISTORY
「テニスとの出会い」
1975年富山県南砺市。田園に囲まれた自然豊かな散居村の中で生まれ育つ。3歳時には生まれつきの病気で心臓を手術。幼少期は大事をとって運動は控えながらも9歳の時にソフトテニス(軟式テニス)に出会う。
ボールを打つ事が楽しくて毎日家で壁打ちをするのが日課。5年生で県大会に優勝しメキメキ力を付け中学生では北信越大会に出場。高校ではインターハイ・国体に出場するものの全国大会では完敗。もっと強く。その思い一つでソフトテニス界の名門「日体大」に入学。全国から優秀な選手が集まり厳しい環境の中、1軍入り。しかし、そこから戦績が伸びずいつの間にか3年の夏に。
日本一という目標を達成する為に信じてきた事。それは日本一の練習をして、日本一の考えを持つこと。その事を1年生の時から地道に重ねてきた結果、3年の秋にスランプを脱出。結果が出始め4年の春からは同級生のキャプテンとペアを組みチームの柱として活躍。関東学生3位、東日本学生3位と入賞を維持し、夏の全日本学生選手権(インターカレッジ)でついに全国735ペアの頂点に立つ。決勝戦のセンターコートに入る光景、優勝を決めたペアのスマッシュは今でも鮮明に記憶している。
「公務員時代」
大学卒業後は、昔からの希望であった地元の福野町役場(現南砺市役所)に就職。ちょうどその3年後に地元で「とやま国体」が開催される事から富山県内のクラブチームに所属し、仕事の他はほぼ練習という生活。各地へ大会遠征、全日本選手権や国体などに毎年出場し2000年富山国体では主力選手として活躍。その後は徐々に体力・技術の限界を感じ31歳の兵庫国体で自ら現役選手を引退。
「経験ゼロから書の世界へ」
引退後は中学県選抜チームの監督や母校のコーチとなるが中々結果を出せずに悩む。生徒を直そう変えようばかりに目を向けていた自分に気づき、一人一人の力を引き出す方法を学び始める。また、あらゆる分野で活動している方々の話を聞きに行く事で世界や日本で起きている多くの社会問題に関心が向き始める。自分がいかに世の中の事を知らなかったのかを痛感し、自分の人生についても深く考え始める。
何か人に貢献できる事をしていきたいと思い始めた頃、目を見て言葉を書き下ろすというパフォーマンスに出会う。選手時代、言葉に力づけられた場面が多くこの活動にとても魂が震えた。そして見よう見真似で筆を持ち言葉を書き始める。友人・知人へ一方的に書いて渡すと予想以上に喜ばれどんどん書く事が楽しくなった。
今まで経験した事のない「喜んでもらえる喜び」を感じた自分はさらに多くの人に言葉を書きたいという思いから商店街や駅地下に座り、道行く人に言葉を書き始める。初めてのお客さんが来た時は手が震えいつもと違う筆を持ったにも関わらずその言葉にお客さんは笑顔で喜んでくれた。毎週末この活動を1年続けた結果「人生は一度きり」やはり自分が一番やりたい事をやろう!と公務員を辞職する事を決意。2010年から書家satoshiとしての活動が始まった。
県内、県外のイベントや店舗などさまざまな場所で人に言葉を書き続け、3年目には単身で初のNYへ。市民の憩いの場として最も人気のあるユニオンスクエア(公園)に座り多くの方に言葉を書かせてもらう。その翌年はロンドン、パリの観光地でも同じように様々な国人々に言葉を贈る。
「個展開催」
書家と名乗る以上、さらに字を高めたいと思い活動2年目から独学で古典を書き写す「臨書」を続ける。その頃から書道展覧会にもちょくちょく足を運び色々な作品を鑑賞をするうちに自分でも大作を書いてみたいと強く思うようになる。
今までにない大筆、大きな紙、色々な墨。全てが初めての事でありお店の人や知合いの書道家に色々聞いて大作を制作。
2015年には初個展を富山市民プラザアートギャラリーにて開催。準備に2年、100点の作品を披露。3日間で約500名の来場者数。この個展をきっかけに2016年2回目の個展を開催。
アートフェア富山2015では平面立体の部で準グランプリを受賞し、東京国際フォーラムで開催されたアジア最大級の祭典「アートフェア2016」に富山代表の作家として出展。
「書への探求」
昨今はネット、SNSでのコミュニケーションが当たり前になり文字を書く事、話す事も昔よりどんどん少なくなってきている。実際、自分も使うし会話する事はとても減ったと実感している。そんな中、筆と墨を使い言葉を書く「書」の魅力・価値は時代と逆行して高まっているような気がする。そんな時代の中で自分が書家として作品を後世に残せることは未来への人とのコミュニケーションだと感じる。
今の人はもちろん、数百年先の人もが作品を見る事を意識し自分にしか書けないものを残せるように。まだまだ探求の道を歩みます。








